来年度から、実家の愛知に引っ越し、私の実家で新しく生活がスタート。
3月はたくさんの別れがあり、とてもとても寂しかった。。。
今の時代は、アメリカにいる夫とも毎日電話できるくらいだから、物理的に離れても大丈夫と自分に言い聞かせながら過ごした。
こういう時にSNSは便利でいいなぁと思う。
私にとって歴4年半の育児のうちの3年半を朝倉で過ごして、出会った子どもたちの成長を間近で見られないのは、寂しいなぁと思うから。
また会えるといいな、みんなに。
ヨーヨは4月で4歳半。
今年度からは年中さん。
早いなぁ。。。
以下は私の備忘録として残しておきたいことをつらつら書きます。
【幼稚園】
ヨーヨが通った幼稚園は、ザ・田舎の幼稚園。
広々とした園庭、十分な自然、水遊びも自由!
小高い丘?山?みたいなのがあってトンネルがある。
3時で園が終了して、雨の日以外はお迎え後に遊ばせて帰る生活。
私がこの幼稚園大好きで、離れたくなかったなぁ〜できれば。
遊んでると先生やお友達みんなが声をかけてくれて、こんな中ですくすく育ってくれたら安心だなぁと思った。
園児の子達は目がキラキラして、生き生きしていた。
こんな風になってほしいなぁと思う子どもそのものの姿だった。
園バスがなくて、毎日往復30分の送迎。
ヨーヨの様子を先生が教えてくれるから、私的にはとても安心できた。
担任の先生の関わり方がとても良かった。他の子と比べるのではなくて、昨日のヨーヨと比べる事の大切さは、担任の先生から教わった。
困りごとも共有できた。
ヨーヨにとって、はじめての社会生活で、先生が1番近くにいる大人であったことは、本当に幸運だった。
本人しか分からない変なあだ名で呼んでいた先生たちのことを、〇〇先生と呼べるようになった。
お友達の名前も、みんな言えるようになった。
お弁当は火木で、少し早起きして頑張って作った。
行事はヤキモキもしたけど、ちゃんと少しずつ成長する姿を見せてくれた。
2年間、この幼稚園に通わせられて、良かったなぁと心から思う。
少子化、過疎化で園児が少なくなりつつある。
この幼稚園の良さが、誰かの目に留まりますように。
【療育】
ヨーヨは1歳半過ぎから、お隣の久留米市にある大きな施設で、療育をしてきた。
2歳半からは週に2回。
運動などを主に行う心理療育で、25日に最後の療育に行った。
全部で116回も通ったのを、担当の心理士の先生が教えてくれた。
すごい。頑張ったな。
月曜日午前と、水曜日1時間、母子通園だった。
主治医の先生は小柄で優しい先生で、診察の時は私たちに今のヨーヨの現状と、これから少し先の見通しをお話してくれ、ありがたかった。
親の私たちが迷わないように、言いにくいことも、ハッキリと言ってくれた。
1歳半健診で療育を勧めてくれた心理士の先生には、本当にお世話になった。
身体の発達と言葉や情緒の発達は、リンクしているんだと教えてくれた。
両足跳びができるようになったら、発語が増えて、ブランコを嫌がらなくなったら、発話が増えて、トランポリン跳びながらキャッチボールが少しずつできるようになってきたら、少しずつ会話ができるようになって、よく歩くようにさせたら、少しの我慢が育った。
他にもいろいろ、細かく見てくれて、見通しを立たせてくれた。
発達は人それぞれ。きっと他の先生だったら、違ったらいけないから、と言わないようなことも教えてくれた。
素人のそのうち出来る様になるよっていう安易な励ましとは違って、重みがあった。
我が家が単身赴任になり、一番しんどい時に、本当に我が身のように心配してくれて、何とかしようとしてくれた。
見た目は強面だけど、愛情深い先生だった。
先生と出会えてなかったら、今のヨーヨはどうなっていたかな、と思う。
その先生とは別に、担当の若い2人の先生たちと、ヨーヨとの信頼関係がどんどん育っていったのを見せてもらえて、安心してお任せできた。
ヨーヨが他害をする相手は、私とゆき氏と2人の先生へだけだった。
先生たちは、この引っ越しをそれはそれは残念がってくれた。
私も、この転勤の話があった時、まず最初に幼稚園と心理の療育どうしよう、と思ったくらい、私にとって心の拠り所になっていた、支えられていたんだと思った。
集団療育はいろいろ思うことがあり、あまり思い入れはなかったが、それも同じ施設でできたことはありがたかった。
集団療育の最後の面談で、保育士の先生から色々お話を聞いて、泣くのを我慢できなかった。悔しい涙なのか、寂しい涙なのか、一体何の涙かわからなかったけれど。
療育へ通うときの景色。
この山並みが綺麗で大好きで、頑張ってる自分へのご褒美にも思えた。
【仕事】
失業保険受給しながら、いい仕事があればラッキーくらいで通っていたハローワークで、紹介された訪問看護のパート。
行き始めてから2回目で妊娠が判明するという、何とも迷惑な中堅新人。。。
それでも、地元民でない私を温かく迎えてくれ、皆さんの人の良さに触れた職場だった。
産後1年で復帰して、計2年強くらい、在籍してたかな。
ヨーヨのことも、親身になって気にしてくれて、療育に母子通園するために、ゆき氏の預け先を探していた時に、病院の託児所に時間外でも預けていいよって言ってくれた。
託児所の先生たちも、ヨーヨを心配してくれて、すごい協力してくれた。
利用者さんも、みんな優しくしてくれて、本当にみんな元気で長生きしてほしいなと思いながら、お別れの挨拶をした。
こんな私に、また看護の楽しさを味わせてくれてありがとうございますと思った。
訪問看護は利用者さんとじっくり関われて、すごい好きな分野だなと思った。
今まで経験してきたどの病院も、楽しさも、もどかしさもあり、今回も同じだった。
在宅で持病を抱えながら、継続してその人にとって質の高い生活を維持することは、難しいなと感じた。
でも、みんなそのときの、それなりの暮らしに慣れる。それが悪いこととは思わないけれど。
利用者さんにとって時には家族よりも信頼されていると思う場面が多々あり、同僚の方の利用者さんへの接し方は勉強になることがたくさんあった。
本当にいい人ばかりの職場だった。あ、1人だけわけわからんBBAがいたけど、すぐいなくなった笑笑。
つくづく運がいい私。
しばらくは看護師の仕事はお休み。
はー、長々と書いた。
でもまだまだ書く。
支援センターで出会ったママ友は、本当の友達になった。(そう思ってるの私だけじゃないことを祈る笑)
支援センターの先生にも、本当にお世話になった。
同じアパートでお友達になった人にも、最後までお世話になった。
裏に住むおじちゃんとおばちゃんは、引っ越しの挨拶行ったら、寂しいって泣いてくれた。私も泣いた。住所教えてもらったから、お手紙書く!
転勤族は別れが寂しいけれど、転勤族じゃなかったら出会えてなかったと思うと、転勤族で良かったと思える出会いがたくさんあった。
朝倉で出会った友達から「どんな人に出会うかで、人生が豊かになるか決まる」と言われたのが、心に響く。
子ども達は親の都合で色々振り回すけれど、どんな場所でも生きていける逞しさを持ってほしいなぁと思う。
さて、紛失した転出証明書の再発行が届き、ようやく武豊町民になれそう。
また引っ越し時の乱心ぶりは気が向いたら書きます。
本当、私は、、、馬鹿者です。